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山野草さがし散策・過去録写真館

金持景藤のお墓

旅、知らなかったことを求めて、のんびりと自然を散策。
旅をして新鮮な空気、情報を取り入れ、自分を見つめ直し、明日への希望と活力に役立てよう。
人は、常に希望を持ち 実りを求めて あせらず 目先の欲にとらわれず、与えられた自然の流れに任せられたら、どんなに素晴らしいことだろう。

金持景藤のお墓
国道181号 四十曲トンネル、板井原トンネル(カーブしているので
要注意)を抜け板井原川に架かる金持上橋のたもと近くに
元弘の忠臣 金持景藤の墓と書かれた指標が立っていたので寄って合掌した
金持景藤の墓
金持党発祥の地
平成二十一年七月吉日
景藤公生誕七百年を記念し墓地を
整備、碑を建立す。
金持大和守景藤公の墓
宝篋印塔(ほうきょういんとう)は
墓塔・供養塔などに使われる
仏塔の一種である。
金持大和守景藤公の墓の碑
景藤公は、元弘元年 足利幕府の倒幕に失敗し隠岐島へ流刑となった後醍醐天皇を
護送途中の四十曲峠まで密かにお迎えし御心を安んじ奉った。
翌二年天皇隠岐島を脱出船上山に身を寄せられるや金持妙見社の戸張を
旗印とし
金持党三百余騎を引き連れ馳せ参じ苦戦中の名和長年公を助け朝山六郎と
ともに幕府方 佐々木清享の大軍を殲滅した。
天皇京都へ還幸(
かんこう)の折りには天皇の左に錦の御旗を掲げ従った。
天皇の親任厚く大和守に任ぜられ名を俊宇と改め軍政にあたり 
延元元年 足利尊氏天皇に叛くや金持党を率いて
新田義貞 恒良 尊良親王とともに各地に転戦奮闘し
北陸金ヶ崎では天皇を守り籠城するなど終始天皇に誠を盡した。
この塔は公の家臣が鎧を持ち帰り当地、堂ヶ平ルの丘に埋葬し
供養した宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。その後 
片目の白蛇が公を守るかのようにたむろして居たと伝えられている。
と碑文に記されていた。 
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