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山野草さがし散策・過去録写真館

北の一本杉・本多応之助のお墓 鶴田城址の城山 西御殿跡 源平椿

久米郡美咲町北と津山市油木北との境の峠、美咲町北よりに、推定樹齢400年の大杉が聳え立っている。

北の一本杉     2018/1/18
所在地:岡山県久米郡美咲町北   
津山駅方面から美咲町西川に向かって国道429号を走行していると、まもなく休乢トンネルの約700m手前、左側に雲海のたまごの自動販売機が設置されている駐車可能な広場がある向かい側に旧国道429号が斜め上に向かっての上り坂に入る。 右手にコンクリートの水槽が設置され、北の一本杉、本田応之助墓の案内板に沿って右折して上っていく。 北の一本杉の案内板のある峠入口
此処に車を止めて、左に山道を
徒歩で上る。
此処は津山市油木北になる。
左側に棚田があり。雑草、落葉などがあるが比較的登り易い道だ。 峠入口から約350mで北の一本杉に到着。ここは久米郡美咲町北になる。
北の一本杉は、美咲町の天然記念物に指定されており、旧津山地方振興局管内の銘木百選にも選定されている。
推定樹齢400年、目通り3.6メートル、樹高24メートルの巨樹老木である。材木用の杉とは違う積雪に強い杉で、真っすぐに上に伸びず、力強い枝を横に伸ばすのが特徴である。
一本杉への山道は、かつては旧旭町より津山市への山越しの主要道であった。一本杉の根本には道行く人々への安全を願う道祖神の祠が祀られている。久米郡誌にも記載されている名木である。近年、一本杉は二度の落雷により樹勢が衰え、半分が枯れ始めていた。そのため、十五年ほど前から樹木医の原田照太氏を中心に保存活動を行い、その保存の一環として十二年前から挿し木による苗木三本の育成を依頼していた。平成二十二年一月二十五日、地元北地区住民と県立勝間田高校生、そして行政との協働により、北の一本杉の木の周辺の整備と一本の子孫苗木の植樹を行った。残りの子孫苗木は幻住寺と旭小学校のグランドへ植樹を行っている。
平成二十二年四月 美咲町教育委員会 と案内板に記されている。
久米郡美咲町は2005年(平成17年)3月22日に久米郡中央町、旭町、柵原町の3町が合併して誕生した町である。
美咲町は岡山県中央部に位置し、人口は約1万5000人。




目通り3.6メートル
南側からの眺め。
北側からの眺め
西側半分は葉も茂り、杉の実も付け巨樹の存在感と威厳を誇っている。
一本杉の周辺は、丸太の椅子など設置され整備されている。 津山市油木北から美咲町上口、小山方面を遠望。上口の天子山にはアメダス天子山観測所が2010年頃まで設置されていたらしいです
久米郡美咲町西地内に2010年頃から設置されている旭西地域雨量観測所
(アメダス)
美咲町上口の牧場付近から、北の一本杉を写す。
天子山の麓の牧場から北の一本杉まで直線で約2.4km
美咲町上口の牧場付近から鏡野町の盆地を遠望。
冠雪の泉山(1209m)、男女山公園、鏡野ドーム等、町の風情を眺望することができる。
男女山から天子山まで直線で約13.4km
久米郡美咲町上口の天子山の中腹辺り津山市油木上から直線で約11.5kmからの眺め。
久米郡美咲町上口の天子山の中腹辺り津山市油木上から、
直線約52km先の雪をまとった大山(標高1729m)の南壁が遠望できる。
一羽は山の下へ向かった。
美咲町上口~津山市油木上を往来する道路に雄のキジ2羽が暫く仲良く歩き回っていた。 もう一羽は山の上に向かった。
北の一本杉に向かう右手の丘に本多応之助のお墓がある。お墓の隣にある碑には以下のように記されている。
本多応之助のお墓  所在地:津山市油木北
石碑正面には本多應之助勝日子之靈
石碑の左側から後側、右側へと以下のように記されている。
本多応之助先生本姓ハ藤原御父本多吉左衛門頼行ノ君三男トシテ文政八年六月久米北条郡油木北村ニ生誕
幼名鹿八郎ノチ応之助勝日子ト称ス 御父ハ芸州広村ノ浪士文化二年作州ヘ移住 幼時ヨリ父ノ薫陶ヲ受ケ文武ノ道ニ励ミ志ヲ立テ全国各地ヘ武者修行ノ旅ニ出頭角ヲ現ワシ ヤガテ郷里ニ近イ津山藩ニ召抱エラレタガ アル日黒門赤木忠春高弟ノ説教ヲ聞キ教祖宗忠神ノ御教ニ痛ク感動 剣ヲ持ッテ人ヲ殺傷スル代リニ陽気ヲ以ッテ万人ヲ活ス道ニ転ジヨウト決意 赤木高弟ニ師事シ持前ノ確固不抜ノ精神ハ御道的活動トシテ活用サレ安政四年備後地方ヲ手始メニ伊予讃岐地方ヲ御道布教ノタメ巡回数多ノ人々ヲ救イ助ケタガ ノチ鶴田騒動ニ差添人トシテ関与シ捕吏ニ捕エラレ明治四年津山ニテ昇天サレタ今年ハ恰モ黒住教立百七十年宗忠神社御鎮座百年大教殿御遷座十年ノ慶祝ノ年ニアタリ本多先生が開教サレタ愛媛県下ノ道ヅレ達ガ先生ノ偉徳ヲ追慕シテコノ碑ヲ建立シタモノデアル
昭和五十九年長月 
鶴田城址の城山(標高 263m) 所在地:岡山市北区建部町鶴田   2018/2/18
岡山県道30号線と県道70号線のT字路交差点に城山があり頂上に鶴田城が築城されていたらしい。
地元の方によりますと、子供のころは城址まで登山できて、石垣や曲輪があったという。
今は雑木や雑草が生い茂り上る事はできないと言われました。
旭川ダム(第二堰堤)付近
城山の麓は、県道30号線が走り、旭川湖の流れがある。 鶴田城が築城されていた城山
西御殿跡(陣屋跡)  所在地:津山市桑下      2018/2/20
特別養護老人ホーム「愛和荘」辺りから西に約150mの所に西御殿跡がある。
久米郡久米町は合併により、2005年2月28日から津山市になっている。
案内板には以下のように記されている。
久米町指定重要文化財
西御殿跡
第二次幕長戦争に際して、石見国(島根県)浜田藩(松平右近将監家 石高六万一千石)は幕府軍の先鋒部隊の一つとして石州囗の守備についたが、
石州囗の戦いにおいては、村田蔵六(のちの大村益次郎)に指揮された長州軍に敗北し、慶応二年(一八六六)七月、自ら浜田城に火を放って藩主以下士卒は杵築に、続いて松江(共に島根県)に退いた。幕長戦争は、朝廷からの勅命による兵事のの停止というかたちで終結したが、その後も
石見国の浜田藩領は長州に占領されたままであったので、浜田藩は藩を挙げて飛領地であった久米北条郡の十七ヶ村(石高八千三百余石)に移動することとなった。藩主松平武聰は、慶応三年(一八六七)三月二十六日、里公文中村の大庄屋福山元太郎邸に入り、藩名を「鶴田藩」と改めた。そして、士卒や家族はそれぞれ近在の民家に寄寓し、慣れない土地での生活を行うこととなった。これは、別の観点からみれば作州移住後は六万一千石の大名が八千三百余石で生活するという、経済的にみても極めて苦しい立場となったのである。その後、人心も落着きを見せ、鶴田藩の統治機構が次第に整うにつれ、移住後福山邸に起居していた藩主や家族についても新しい居所が検討されるに至った。当初候補地となったのは、久米北条郡下打穴村内の鬼山であったが、慶応四年六月以降鶴田藩領となっていた同郡桑下村内のこの地に建設されることとなった。
鶴田藩主の居館は、この西御殿の地に建設され、藩主がここに移ったのは年号も改まった明治四年(一八七一)の六月であった。しかしながら同月の版籍奉還、翌七月の十四日には廃藩置県の詔書が出され、松平武聰は藩知事の職を解かれて東京へ召されることとなった。武聰の東京への出発は同年八月二十三日であり、藩主がここへ起居したのはわずか足掛け三ヶ月の短期間であった。
久米町指定重要文化財 昭和四十四年十月九日指定と記されている。




高台地の下部周りは石垣が施されている。台地には桜の木も植栽され、ここからの眺めは、よろしゅうございます。
多くの犠牲の基に現在がある。御案内板には以下のことが記されている。
殉難碑
この殉難碑は明治二十一年、旧浜田藩士が津山に集まった折に、慶応・戌辰の役に殉じた旧藩士の追悼のための建碑の議が出され、満場一致の同意を得て募金を開始し、ここ久米郡倭文東村桑下の旧西御殿跡地に建てたものである。
除幕式及び初回の慰霊祭を明治二十三年(一八九〇)四月二十三日に執り行い、以後毎年尾関隼人當遵家老の命日四月十九日に実施することとした。以来百二十余年、一年も休まず慰霊祭を行っている。なお、旧浜田藩は作州に移ってから鶴田藩と名を変え、明治維新、廃藩置県を迎えて岡山県となった。
平成二十九(二〇一七)年七月二十日  美作浜田会  と記されている。


源平椿  植栽地:旧国道429号線沿い 津山市油木北  2018/2/20
目通り:約1530mm、直径:約50cm、樹高:約9m
森氏が津山城築城の時、殿様からもらったと言い伝えられ、一株の椿の木に
赤色と淡紅色の花を咲かせると云われている。 開花の写真は、2018年3月17日に写しました。




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