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山野草さがし散策・過去録写真館

高越城址

高越城は、鎌倉時代末、、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて作らせたと伝えています。 戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原庄を治め、この高越城を居城にしていました。

高越山城・高越城址  2017年5月5日
高越城と北条早雲 説明板
高越城は、鎌倉時代末、、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて作らせたと伝えています。
戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原庄を治め、
この高越城を居城にしていました。伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、この備中伊勢氏出身で、
永享4年(1432)父伊勢盛定の子としてこの地に生まれました。新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、
西江原の法泉寺で学んだといわれています。その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、
京都に上り幕府に仕え、応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国(現在の静岡県)の守護今川家に身を寄せました。
新九郎は、この今川家の家督争いを治め、56歳にして初めて駿河国の興国寺城の城主となりました。
その後、伊豆国(現在の伊豆半島)、相模国(現在の神奈川県)を治め、88歳で亡くなるまで、北条五代100年の
関東支配の基礎をつくり、戦国大名の魁となりました。現在も高越城は、山陽道、小田川を眼下に、
本丸を含めて5段の郭で構成されており、当時の状況をよくとどめています。平成12年3月と記されている。
 所在地 岡山県井原市神代町  
井原鉄道・コントロールセンターの約650m北側に高越城址の案内板が立っている場所から2.9km先の高越山山頂の
高越城址が木立の中に見える。 このルートからも高越城址へ行くことができる。
国道486号を西進し、井原市東江原町の信号のある交差点を右折して、一般道を北進し、
井原鉄道 第3東江原踏切を一旦停止する。右手、東に「早雲の里荏原駅」が見える。
踏切を渡って北進していると左手に高越城址(大型バス通行可)の案内板を見かけたので行って見る事にした。
国道486号を西進し直進・井原市街 右折・野上、青野、ぶどうの里 葡萄浪漫館8kmと書かれた案内標識を見たら交差点を右折する。第3東江原踏切を一旦停止し渡る。右手、東に「早雲の里荏原駅」が見える。
北進していると左手に高越城址(大型バス通行可)の案内板を見かけたので
行って見る事にした。
11:58
井原市野上町内の上り坂を走行してくると少し平坦路になった広いT字路を右折して、井原ゴルフ倶楽部、ほし柿の里方面に向かう。T字路の先右手に石灯篭あり。
井原ゴルフ倶楽部の横を通り、案内板に沿ってゴルフ場の下をくぐり抜けて進む。
12:06  高越城址の駐車場
トイレも完備された広い駐車場に到着。駐車場の南側法面にヒラドツツジが咲き誇っていた。
郷土文化歴史研究家として活躍された立木望隆(ついきもちたか)先生(1913年1月18日-1995年)の句碑が
駐車場東側に高越城址に向かう小道横に建立されている。「夏草の中に起こすや古石仏」杜夫
12:11  戦国の名将・北条早雲生誕の地 
左道路・高越城址まで400m、右道路は行き止まり
12:15  
坂道を登ってくると頂上手前の広場に到着 トイレも完備されている。
擬木丸太の階段を上ると高越城址広場に着く。
高越城址広場頂上に着く。
360度パノラマが楽しめる広場 高越城址はソメイヨシノ桜が、ぐるりと植栽されている。
頂上には北条早雲生誕の地、忠魂碑が建立されている。
国土地理院の三角点
東方面は、横掛城・矢掛方面、阿部山(阿部清明)
南方面は、東西を結ぶ国道486号(旧山陽道)、井原鉄道の沿線のパノラマを楽しむことができる。
南側に小さな祠あり。 合掌
西方面は、約2km先の法泉寺(西江原)、大岩刻早雲供養碑(東江原)、シーピー化成工場群、
井原市街地、約5km先の井原クリーンセンターなどの遠望を楽しむことができる。
北側方面は、高越城址北側の案内標示:新九郎薬師堂(西側)、登山道下り口。北側眼下にひろがる田園地帯、
間もなく田植えが始まるので田おこしから代掻きに移る準備が整っていた。
戴いたリーフレット  「北条五代」を大河ドラマに!とのスローガンが描かれた幟が建てられている
5月のひと時を楽しませていただきました。
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