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山野草さがし散策・過去録写真館

雪ふる日 福山八幡宮 艮神社 三蔵稲荷神社 福山城

2011年2月14日 月曜日
雪ふる福山駅周辺を訪れる。
雪は3cmくらいは積もっていただろうか? 
桜も1ヵ月半もすれば満開の季節を迎える。
桜をはじめとして木々は寒さに耐えながらも、着々と新芽を
静かに宿している。一斉の開花、新緑の季節がまもなく訪れる。

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福山八幡宮 西御宮

所在地
広島県福山市北吉津町1-2-16
水路に架かる橋を渡ると
西御宮の神門がある。
一礼する。

西御宮 大鳥居

朱塗りの両部鳥居が
建立されている。

参道階段 仁王門

石段は横幅広く上り易いです。石段を上りきると
立派な仁王門がある。

西御宮

以前は、野上八幡神社と称されていたという。

中央駐車場出入口

自動車が数十台は止められるであろう広い駐車場です。

2011年4月13日 快晴    
福山八幡宮 中央出入口
青空にソメイヨシノが満開に映え、ソテツが、皆さん頑張れと勢いを増していた。
手水舎
右手で柄杓を取り、左手を清め、次に右手を清める。もう一度右手に柄杓を持ち替え、左の手のひらに少量の水を溜め、その水を口に含み、音を立てずにすすいだ後、左手で口元を隠してそっと吐き出す。決して柄杓に直接口をつけてはならない。柄杓を両手で持ち、やや立てるように傾け、残った水が柄の部分を流れるようにする。柄杓を元の位置に静かに戻す。

福山八幡宮 中央拝殿

東御宮から中央拝殿を望む。
応神天皇、神功皇后、比売大神の三神が祀られている。

福山八幡宮 中央拝殿

福山総鎮守。
福山八幡宮は西御宮、中央拝殿、西御宮と珍しい
左右対称の神社造りである。

福山八幡宮 東御宮

水路に架かる橋を渡ると
西御宮の神門がある。
一礼する。

東御宮 大鳥居

朱塗りの両部鳥居が
建立されている。

参道階段 仁王門

石段は横幅広く上り易いです。石段を上りきると
立派な仁王門がある。

東御宮

以前は、延広八幡神社と称されていたという。

艮神社 神門 参道

所在地
広島県福山市北吉津町1-5-24
神門を通ると清掃が行き届いた石畳のゆるやかな坂の参道

艮神社 鳥居

正徳六年(一七一六年)建立
風化が激しく折れる危険があります。絶対に登らないで下さい。との注意書きあり。
ナイロン縄の注連縄のようです。

鳥居をくぐると

鳥居をくぐり石段を4段上ると手水舎が左手に
ある。

手水舎(ちょうずや・てみずや)

1.左手を洗う

 2.右手を洗う

 3.口をすすぐ

 4.柄杓を清める

参道石段

きっちり整った石段が仁王門へと続く。

仁王門

邪心、不浄心が追い払われ素直な心で拝殿へと進む。

宇受賣神社
(うずめじんじゃ)

境内社。
祭神:天宇受賣命(あめのうずめのみこと)
神徳:音楽、美術、芸能
天宇受賣命は、天の岩戸開きの時、岩戸の前で伏せた桶の上で面白おかしく上手に舞踊を演ぜられた為に八百万の神々がドット歓声を上げそこで天の岩戸が開かれ、天照皇大神の御出現で再び明るい世界に帰りました。その神徳を称えて音楽、美術、芸能の神と祀られたのであります。と記されている。

艮神社

拝殿と本殿

艮神社

拝殿と本殿

昔の名残

昔は清らかな水が流れていたので此処で野菜などを洗っていたのであろう水路あり。

福山市北吉津町 真言宗 観音寺前を東西に流れている水路に貴重な遺構ありとの説明板が設置されている。
御手洗川の上水道施設
福山の城下町は、海を埋め立てて造られたため、塩分を含まない良質な井戸水を手に入れることが困難でした。
このため、初代福山藩主、水野勝成は築城とともに上水道の整備に力を注ぎました。
芦田川から吉津川に引き込まれた水はどんどん池(蓮池)に蓄えられ、上水道を通して城下町に運ばれて
飲料水として利用されたのです。
この石組みの扉門は、かつては御手洗川から上水を取るための重要な取水口でした。
取水口から取り入れられた上水は、古吉津町に埋設された土管を通して各寺院や民家に給水されました。
この上水道施設は城下町の発展に大きな役割を果たしてきた貴重な遺構といえます。と記されている。

三蔵稲荷神社 鳥居

所在地 
広島県福山市丸之町1-8-7

三蔵稲荷神社 神門

鳥居を抜け、樹木トンネルに囲まれた石段参道を登る。

三蔵稲荷神社 拝殿

石段参道を登ると目前に三蔵稲荷神社の荘厳な拝殿が建立されている。

福山城(福山城博物館)

所在地:広島県福山市丸之町1-8

福山城は西国鎮護の重責を担って入封した徳川譜代の臣、水野勝成が元和六年(一六二〇)より三ヶ年の歳月を費やし、陸海の要衝であるこの地に完成させた平山城である総面積約八万坪(二六.五ha)内外二重の濠をめぐらし本丸には、白亜の五層六階の複合天守と多数の櫓を構築、その偉容は、全国城郭中屈指の名城とされていた。その後、水野五代、松平一代阿部十代の居城となり、明治になって濠は埋められ、月見櫓をはじめ多くの櫓が取り壊され、残された天守閣、湯殿等も第二次世界大戦の戦火により焼失した。幸いにも、築城当時、伏見城から移築した伏見櫓、筋鉄御門は、昔日の姿を留め、貴重な遺構として重要文化財の指定を受けている。なお、現在の天守閣等は昭和四十一年市政五十周年記念事業として、市民の浄財で外観復元がなされ、城跡は国の史跡となっている。城名 鉄覆山朱雀院久松城 別名 葦陽城 と記されている。

水野勝成之像

瀬戸内海の中央、福山湾岸に河口を開く芦田川、その広漠たる干潟を埋めて城下町となし、ここに城を定む。水野勝成は、元和五年(一六一九年)備後十万石の藩主に封ぜられるや、この町を開き福山と命名す。移封以来、民政に意を用い、広く領内に池溝を開削し干拓を行い、耕地の拡大に努め、芦田川を改修し水道を穿ち藩政の安泰に力を尽す。また社寺を復興し、文化の昂揚を図り今日の福山の礎を築く。市政六十周年の記念すべき年にあたり銅像建立を発起し、先人の遺徳を偲び明日への躍進を誓う。昭和五十三年四月建之 水野勝成公銅像建立期成同盟会と記されている。

福山城 鐘櫓

福山市重要文化財 昭和54年10月26日指定
築城当時より城下や近隣諸村に「時の鐘」をつげた遺構で江戸期には鐘と共に緊急時武士を招集する太鼓も備えていた。当初は柿ぶきか桧皮ぶきであったが明治以後荒廃が激しくたびたびの補修のため原形をとどめない状況であった昭和54年銅板ぶきとし旧規に復したものである。城地内に鐘櫓が所在するのは、全国的に例がなく貴重な文化財である。
福山市教育委員会と記されている。

湯 殿

2011/2/14
京都、伏見城内にあった御殿とともに移築した建物で、国宝に指定されていたが、昭和二十年(一九四五)の戦災により焼失した。昭和四十一年(一九六六)に内外ともに復原したものである。と記されていた。

湯 殿

2014/2/8  3年ぶりの積雪

福山城 正面

2014/2/8
積雪の中に威風堂々と雄姿を誇る

福山城 北面

2014/2/8
積雪の中に威風堂々と雄姿を誇る

雪だるま&かまくら

2014/2/8
3年ぶりに約4cmの積雪。
ふくやま美術館付近に作られていた。

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