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山野草さがし散策・過去録写真館

雲海で備中松山城・天空の城を見たさに

高梁市内山下 臥牛山に位置する備中松山城が、雲海のなせる業によって天空の城となるとの情報を得て、興味津々で出掛けてみることにしました。
高梁市奥万田町と高梁市松山の境界辺りに備中松山城展望台があり松山城の天空の城としての風情が味わえる。

備中松山城 たかはし お城まつり 2011年10月2日(日)~11月27日(日) 土、日、祝日
ぶらりとドライブをしようと国道180号線(313号線)を高梁市中心部へと南下する。
備中松山城の駐車場に着くと、多くの見学の方々が小型バスや乗用車で来られていました。
静岡、岐阜、浜松、大阪、広島など他県ナンバーの車が次々に来られていた。
地元の方が言われるには、近年は東京より北方面の地域より見学に来られる方が多くなっているという。 
頂いたパンフレットなどを引用しています。
写真は2011/11/10、2012/3/13、2012/4/17に写したものが混成しています。       
 住所 岡山県高梁市内山下1  
津山城 雲海で備中松山城・天空の城を見たさに

天空の城塞「備中松山城」

13:01 途中で写真を写しながら備中松山城に着きました。
市街地の北端にそびえ「おしろやま」の愛称で市民に親しまれている「臥牛山(標高四八〇m)」北から「大松山」・「天神の丸」・「小松山」・「前山」の四つの峰からなり、南から見た山容が、草の上に伏した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれ、備中松山城はその頂を中心に全域に及んでいます。
現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の小松山の山頂(標高四三〇m)を中心に築かれた近世城郭を指し、天守、二重櫓、土塀の一部が現存し、昭和二五年に重要文化財の指定を受けています。
また平成九年には、これら重要文化財を中心に、本丸の正面玄関ともいえる本丸南御門をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが史実にもとづいて復元されました。さらに傷みが進んだ天守も平成十五年には保存修理が行われて現在に至っています。といただいたパンフレットに記されている。 

備中松山城のパンフレット 

入館受付所

13:01 入館料 大人300円だった。本丸南御門(復元)をくぐり本丸、天守へ12月28日~1月4日は休業日の為、本丸への入城はできない。

本丸を囲む建築物

左手の土塀の向こうは六の平櫓(復元)、中心は五の平櫓(復元)
右手奥に見える建築物が天守(現存)である。五の平櫓に石落しが設けてある

本丸・天守・本丸東御門

本丸南御門から本丸広場、天守、右手の白土塀の奥に本丸東御門の風景

天 守

強固な岩盤の上に木造本瓦葺き二層二階の建物で、白と黒のコントラストが良い。

天 守

木造本瓦葺き二層二階の建物で、内部一階には囲炉裏と装束の間が、二階には城の守護神を祀った御社壇があります。古い木組みの構造の中に、美しい手斧(ちょうな)と槍鉋(やりがんな)の跡が見られます。

天 守

二重櫓から見た天守の裏側。強固な岩盤の上に城台が組まれ、木造本瓦葺き二層二階の建物が築城され、白と黒のコントラストが良い。

本丸東御門

復元された建築物で本造本瓦葺き、棟門、本丸内で唯一の引戸。
本丸の勝手口にあたるという。

本丸東御門

復元された建築物で本造本瓦葺き、棟門、本丸内で唯一の引戸。
本丸の勝手口にあたるという。

本丸東御門

本丸を出て下から写しました。

本丸・五の平櫓・六の平櫓

本丸広場の左手の建物が五の平櫓、右手の六の平櫓。六の平櫓には平成九年(平成の復元)に復元されるまでの道のりの説明版がある。

復元までの道のり    
平 成 の 復 元

七の平櫓跡

本丸広場の右手の六の平櫓の西に七の平櫓跡がある。山の木々の間から
高梁川など市街地を覗うことができる

七の平櫓跡

2011/11/10 13:43
七の平櫓跡の北側の樹木を渡り歩く猿が一瞬現れた。
とっさのことで、慌ててカメラを向けたのでピンボケだぁー。

天守の入口内部

天守に入り、1階でスリッパに履き替えて天守内部を観覧し、当時の人々は、どんな生活ぶりだったのだろうと往時に思いをはせる。入って左手窓側

天守の入口内部

入って右手側
石垣が築かれ、そこに木製の階段が架けられ一階に上がり降りするようになっている。

天守の入口内部

奥から入口がわを写す。ここから一階に上がり降りする。

一階から見た階段

急勾配だねぇー。

天守の内部・狭間(ざま)

1階の左側の壁に木製の□な穴が設けられて、ここから外部の様子を覗い
敵兵に備え火縄銃や弓などで攻撃していたのだろうか?

天守の内部・狭間(ざま)

1階の左側の壁に木製の□な穴が設けられて、ここから外部の様子を覗い、敵兵に備え火縄銃や弓などで攻撃していたのだろうか?

天守の内部・石落し

1階の床の一部を石垣上に張り出して設け敵兵の攻撃に石を落す。
外観は丁度魚の「えら」に似ていることから鰓形窓(えらがたまど)とも言う。

天守の内部・石落し

1階の床の一部を石垣上に張り出して設け敵兵の攻撃に石を落す。
外観は丁度魚の「えら」に似ていることから鰓形窓(えらがたまど)とも言う

天守の内部・武者窓(連子窓)

この窓は角材に漆喰塗をされている連子格子窓

二重櫓

1階の跳ね上げ窓から見た二重櫓

一階内部

がっしりとした古材のきっちりとした寸法で木組みされている。

一階内部

奥が装束の間。

一階内部

装束の間から見た一階内部。
は、こちらへ

構造・大修理
天守内部の構造、昭和の大修理、平成の大修理について 
天守の構造 昭和の大修理
平成の大修理

一階内部の展示物

「奉棟上松山城天主閣一字 天下泰平國土安穏五穀成就」皇紀二千六百年 修築と書かれた木札と修築に関わった関係者が書かれた額がある。

一階内部の展示物 蕪懸魚

備中松山城天守の上層、妻の拝みに取り付けられている装飾。左右一対の鰭を有する。今回(平成13~15年)の修理時に取り替えられたもの。江戸時代の創建材(1683年)と考えられる。と説明されていた

一階内部の展示物 鯱瓦

頭部は虎、体部は背上にするどい刺をもつ架空の海魚。波をおこしてよく雨を降らすとの言い伝えから、防火の呪(まじない)と考えられている。古代の鴟尾(しび)(註)が変形したものと考えられており、破邪・防火を意味する。その姿が勇ましく、反り返った姿が鉾を立てた形に似ていることから、鯱鉾(しゃちほこ)とも言われる。左右一対を為し、口を開けた「阿」と口を閉じた「吽」とがある。元来、寺院の厨子や建物に使われていたが、桃山時代頃から、城郭建築にも多く使われている。と説明書きがされている。

一階内部の展示物 備中松山城の鯱瓦

現在の備中松山城天守・二重櫓に備わっている鯱瓦は、昭和15年や昭和35年に行われた修理によって、。と説明書きがされている。

一階内部の囲炉裏

板石造り、長さ一間、幅三尺籠城時の城主の食事、暖房用に用いられていたと言われている。天守閣の中に切りこみの囲炉裏があるのは全国でも珍しい。これは戦国時代備中の首都として、この城の激しい争奪戦が幾度も繰り返された経験から生まれたものである。と説明書きがされている。

武者窓(連子窓)

正方形の角材の角を外側に向けて並べて、外側からは内が見えにくく、内からは広角に敵兵の動きを見ることができる。と説明されている。

装束の間

籠城時の城主一家の居室。床下に石を入れ隙間のないようにし、忍びの者でも侵入できないように工夫されている。戦にやぶれ、落城の時は城主一家の死に場所でもある。と説明書きがされている。

装束の間 天井の木組み

装束の間の天井角部分のしっかりとした木組みだねぇー。

天井の木組み

一階の天井角部分のしっかりとした木組みだねぇー。

装束の間からの二重櫓

二重櫓の奥の山に天神の丸、大松山と城郭が続く。

二階に上がる階段

この階段には踊場が付き折れ曲がっている。敵がすぐにあがれないように曲げ、幅も一人しか通れないように狭く階段の勾配も急で、すべて防御に有利に考えられている。勾配が急であるため各階の踏板にすべり止めも工夫もされている。との説明書きがされている。

一階内部から見た二階に上がる階段

この階段には踊場が付き折れ曲がっている。敵がすぐにあがれないように曲げ、幅も一人しか通れないように狭く階段の勾配も急で、すべて防御に有利に考えられている。勾配が急であるため各階の踏板にすべり止めも工夫もされている。との説明書きがある。階段傾斜角60度くらい

二階上から見た階段

この階段には踊場が付き折れ曲がっている。敵がすぐにあがれないように曲げ、幅も一人しか通れないように狭く階段の勾配も急で、すべて防御に有利に考えられている。勾配が急であるため各階の踏板にすべり止めも工夫もされている。との説明書きあり。人の出入りが多いか木材が光っている

踊場上から見た階段

この階段には踊場が付き折れ曲がっている。敵がすぐにあがれないように曲げ、幅も一人しか通れないように狭く階段の勾配も急で、すべて防御に有利に考えられている。勾配が急であるため各階の踏板にすべり止めも工夫もされている。との説明書きがされている。

二階内部の御社壇

天和三年(一六八三)当時の城主 水谷左京亮勝宗(みずのやさきょうのすけかつむね)が、この松山城を修築したその節松山藩五万石の守護として三降の宝剣に天照皇大神を始め水谷氏守護神羽黒大権現等十の神々を勧請し、この御社壇に安置し、事ある毎に盛大な祭典を行ない安康を祈った。との説明あり。

二階から

二階から市街地、二の丸広場、五の平櫓、本丸南御門、六の平櫓、本丸広場を見渡すことができる。

二階から

二階から東の風景を見る。
紅葉が進んでいた。

北から見ると

二階天井、屋根の木組み。

北から見ると

二階天井、屋根の木組み。

南から見ると

二階天井、屋根の木組み。

岩盤上から見ると

天守内部を見学して、出てきて天守が建つ岩盤上から写しました。

天守の石落し

黒塗り木材の石落しが張り出している。

天守の石落し

黒塗り木材の石落しが張り出している。

本丸東御門から二重櫓に向かう

天守が建つ岩盤上から二重櫓に向かう石段、続く土塀

土塀に沿って

二重櫓へと天守東側を巡る。

土塀に沿って

紅葉樹木を眺めつつ、武将たちに思いめぐらす。
土塀には四角い矢狭間と丸い筒狭間が備わっている。

腕木御門

向こうに見えるは、復元された腕木御門。木造本瓦葺き、棟門、開き戸。二重櫓の脇にあり、本丸の裏門にあたる。降りていけば、搦手門(からめてもん)の前に出る。搦手門は城主などが城外や外郭に逃げられるようになっていたという。

連子窓

下から見上げた天守一階の連子窓。

二重櫓

天守同様、天然の巨石を櫓台とした二層二階建の構造です。南北2つの出入り口は、北は後曲輪に、南は天守裏に通じています。 

腕木御門から

敵兵を迎え撃つための知恵なのか?道幅が狭いなぁー。

2011/11/10
本丸を出て二の丸を通り抜け北にある後曲輪へと向かう。

後曲輪へと向かう

原生林なのだろう、大きな樹木が急傾斜地に林立している。

後曲輪へと向かう

原生林なのだろう、大きな樹木が急傾斜地に林立している。

樹木の根回り

原生林なのだろう、大きな樹木が急傾斜地に林立している。
石垣を支えるように生え出た樹木に歴史を感じさせてくれますねぇー。

後曲輪

奥に後曲輪の石垣が見える。手前右手の落ち葉に覆われている辺りが搦手門曲輪跡である。

後曲輪

2011/11/10 13:49
奥に後曲輪の石垣が見える。手前右手の落ち葉に覆われている辺りが搦手門曲輪跡である。後曲輪は工事中だったので立入禁止だった。

搦手門から

2011/11/10
搦手門曲輪跡から本丸方面を望む。

後曲輪

2011/11/10 13:50 
搦手門(からめてもん)曲輪跡を過ぎると奥に後曲輪の石垣が見える。後曲輪は工事中で立入禁止だった。左上は二重櫓です。

後曲輪

2011/11/10 13:50 
搦手門(からめてもん)曲輪跡を過ぎると奥に後曲輪の石垣が見える。後曲輪は工事中で立入禁止だった。備中松山城は散策にもってこいのコースだ。

二の丸跡  

後曲輪などを散策して二の丸に戻ると多数の観光客が来られ、観光ガイドの説明を聞かれていた。

高梁市街地  

2011/11/10 14:08
 中太鼓の丸跡から見た高梁市市街地。武家屋敷に向かおう。

帰りは城山トンネルを  

渋滞を避けるため一方通行にご協力ください。との案内板が城山トンネルの右手前の空地に建っている。 武家屋敷に向かう。

城山トンネル  

長さ127m 幅8.7m

城山トンネル  

2012/4/17
城山トンネルを抜けて、右手の桜の手前脇を右折する。

右折して 

右手の桜の手前脇を右折して、国道方面、武家屋敷、商家資料館方面に向かう。直進すると吉備国際大学方面へ行ける。ソメイヨシノ桜が散り始め。

右折すると 

左手に高梁運動公園がある。

下ってると 

高梁運動公園から下って来ると、突き当りになるので左折して武家屋敷方面へと向かう。

高梁市武家屋敷 旧折井家   旧折井家 旧埴原家へ

伯備線 小高下踏切  

2011/11/10 14:41
備中松山城から高梁市武家屋敷に向かっていたら、JR伯備線 備中高梁駅を14:40発下り出雲行き特急やくも15号が高梁市石火矢町の小高下踏切を通 過中であった。 

伯備線 小高下踏切手前を左折して  

2012/4/17
この踏切の手前を左折して武家屋敷通りへと入り、武家屋敷 旧折井家(きゅうおりいけ)、旧埴原家(はいばらけ)、頼久寺(らいきゅうじ)方面へ。

武家屋敷通り  

石火矢町ふるさと村 武家屋敷通りは一直線な道を挟んで白壁の建物やベージュ色の土塀が並ぶ。右手の白壁土塀を過ぎると武家屋敷館駐車場、トイレがあります。

武家屋敷通り  

2012/4/17
ソメイヨシノ桜が咲き一層白壁土塀が映えていた。
左手に旧折井家、旧埴原家へと続く。

武家屋敷通り  

右手、砂利敷きの武家屋敷館駐車場にはトイレもあります。
駐車場は入口幅が広いので自動車の出入りがし易い。

武家屋敷通り  

2011/11/10
武家屋敷館駐車場を過ぎた辺りの風景。

旧折井家前  

2012/4/17
ソメイヨシノ桜が咲き一層白壁が映えていた。左手に旧折井家。

旧折井家 入口受付 

長屋門入口、右手が入館料の受付となっている。
旧折井家と旧埴原家の共通入館券 大人400円であった。

家中屋敷 旧折井家  

藩制時代の武家屋敷は、官舎と役所を兼ねていた。そのため当藩の板倉家では、屋敷の規模を左の図のように5段階に分け、家格と職務内容にふさわしいものが与えられていた。折井家は代々板倉家に仕え、軍役を掌る物頭格、禄高は常に200万石前後の家柄である。この屋敷が二番屋であるように、藩士の地位もほぼその程度であった。と記されている。

市指定重要文化財・旧折井家 母屋  

2011/11/10 14:46 踏石が敷かれ、庭の植木も手入れが行き届いていた。建物の左手、式台・玄関・居間へ

旧折井家 書院造りの母屋

建物の右手、土間・台所など。

共通入館券 ↓

高梁市武家屋敷・旧折井家 ↓
戴いたパンフレット
武家屋敷・旧折井家の由来

旧折井家 玄関  

お客様をセンサーで感知し、動く蝋人形が丁寧にお辞儀をして
出迎えてくれる。

旧折井家 玄関から見た長屋門  

玄関から見た長屋門。右手が馬屋であった。

旧折井家 奥座敷  

蝋人形のご夫婦と子供?が、勉強中だった。上手く制作され、まるで本物みたいだね

旧折井家 庭園  

居間の廊下から見た庭園である。先人である武士たちは、どんなことを考えて生活していたのだろうか? ご苦労は大変なものであったろうなぁー。

旧折井家 居間  

居間に置かれている鉄の飾り金具が取り付けられている重厚な箪笥は無垢材だろうから重くてがっしりとしている。

旧折井家 長持 

衣類などを収納していたのだろうか?
かっちりとした作りだ。

旧折井家 居間  

火鉢なども展示されている。炭火で餅を焼いて膨れ上がった光景、きつね色に焦げた香りを、刻み煙草を煙管で吸う光景を想像させてくれますなぁー。

旧折井家 台所  

竈(かまど)、竈(くど) 竈には煙の出る穴が無い?かまどは本体を指し、くどとは煙の出る部分を指すが、昔はかまどとか、くどと呼んでいた。

旧折井家 台所  

ご飯を入れた「おひつ」を保温するための「藁いずみ」や食器棚なども展示されている。衣紋掛け、引戸なども昔の面影を色濃く残している。

旧折井家 風呂  

風呂桶は、桧材板を竹材で作られている箍(たが)で締め付けている。この風呂桶は箍が緩んでいた。

旧折井家 土間  

土間には、2基の御駕籠が展示されている。駕籠を担ぐ人は大変だったろうなぁー。

旧折井家 土間  

土間には、2基の御駕籠が展示されている。駕籠を担ぐ人は大変だったろうなぁー。

旧折井家 土間  

土間には、2基の御駕籠が展示されている。
駕籠を担ぐ人は大変だったろうなぁー。

旧折井家 土間  

土間には、2基の御駕籠が展示されている。
駕籠を担ぐ人は大変だったろうなぁー。

旧折井家 土間  

土間の天井、屋根裏の木組みは竈で焚く薪の煙に燻され黒くなっている。
燻された木材は虫などに食われず、長持ちがするという。

旧折井家   

武士たちが使っていた槍
こんなに長いものを持ち歩くだけでも大変だぁー。

旧折井家 釣瓶井戸   

母屋裏には、釣瓶井戸や資料館がある。
資料館には、鎧兜や陣羽織、陣太鼓、火縄銃や槍などが展示されている。

旧折井家 釣瓶   

井戸囲いの天井に取付けられている滑車に通しているロープ(縄)に括り付けられている木製釣瓶(バケツ)を井戸の中へ落し入れて水を汲み上げる。

旧折井家 資料館   

資料館には、書物や
鎧兜や陣羽織、陣太鼓、火縄銃や槍などが展示されている。

高梁市武家屋敷 旧埴原家   旧折井家 旧埴原家

旧埴原家前  

2012/4/17
ソメイヨシノ桜が咲き一層白壁土塀が
映えていた。

武家屋敷通り  

2011/11/10
武家屋敷館駐車場を過ぎた辺りの旧埴原家前の風景。

武家屋敷 旧埴原家  

旧埴原家の入口

戴いたパンフレット
武家屋敷・旧埴原家の由来
旧埴原家住宅 ご案内板 ↓

武家屋敷 旧埴原家  

旧埴原家の入口から見た玄関・幅2間の式台を設けている。江戸時代中期から後期にかけて、百二十石から百五十石取りで、近習役や番頭役などを勤めた武士の住宅であると戴いたパンフレットに記されている。

旧埴原家 式台・玄関  

式台上部の水引虹梁(みずひきこうりょう)の両端の袖切部分には、絵様である若葉を施してある。

旧埴原家 式台・玄関 

式台上部の水引虹梁(みずひきこうりょう)の両端の袖切部分には、絵様である若葉を施してある。

旧埴原家 式台上部の蟇股 

水引虹梁の上には、雲と梅鉢の家紋を彫刻している蟇股(かえるまた)が軒を支えるように組込みされている。

旧埴原家 玄関 

玄関には山田方谷先生が4才の時の書「風月」と手形が彫刻された木板が
展示されている。

旧埴原家 采配 

受付左手に政治家・教育者 山田方谷先生の山田方谷資料室があり、江戸時代 先生が愛用した采配や直筆の掛け軸などゆかりの品々が展示されている。

旧埴原家 奉納額 

奉納額「風 月」山田方谷 筆 文化五(一八○八)年 高梁小学校 蔵
山田方谷が四歳(数え年)のとき書いた奉納額。方谷は幼少のおりから、神童の誉れ高く、最初の師である新見藩儒丸川松隠(一七五八~一八三一)にもその才を称えられている。奉納額はこのほかにも数点確認されている。長じてからも方谷の書は多くの人々に好まれた。と添え書きがされている。

旧埴原家 内玄関 

北側にある内玄関から広敷→玄関→座敷が通して見ることができる。
格子戸など昔風の引戸を見ると懐かしいねぇー。

旧埴原家 内玄関  

北側にある内玄関から広敷→玄関→座敷が通して見ることができる。
「こちらよりご自由にお上がりください」と書かれている。

旧埴原家 台所  

広敷の東隣にある台所。
食器棚、火鉢などが置いてある。

旧埴原家 居間  

台所の隣の居間の天井に取付けられている吊り棚。どんなものが置かれていたのだろう?天井が台所の竈から出る煙でくすんでいる。

旧埴原家 奥座敷  

奥座敷に「神 農」方谷球書と書かれた掛け軸が掲げられている。

旧埴原家 書幅「白鹿洞書院の掲示」(複製)  

「白鹿洞書院の掲示」は中国南宋時代の儒学者朱熹(しゅき、1130~1200)が、親子や君臣、夫婦など人間関係、学問の心得、自分の行動のあり方、物事の処置、接し方の五項目について古典をもとに簡潔にまとめたもので、朱子学の根本の考え方を示している。板倉勝静(かつきよ、1823~1889)は備中松山7代藩主、老中首座。周防守、伊賀守。号は庫山、松叟。山田方谷を登用し、藩政改革で成果を挙げ、徳川家茂、慶喜のもとで老中を勤めた。と添え書きがされている。
 

旧埴原家 座敷  

床には掛け軸が掲げられ、生け花や人形が飾られていた。違い棚や天袋(袋戸棚)が設けられ、左手には火燈窓(花頭窓)が嵌め込まれている。

旧埴原家 座敷の花頭窓  

座敷には掛け軸が掲げられ、違い棚や天袋(袋戸棚)が設けられ
左手には火燈窓(花頭窓)がある。
備前市閑谷に特別史跡旧閑谷学校の講堂にも花頭窓が設けられている。

旧埴原家 座敷の欄間 

座敷と奥座敷の間にある欄間(細い千本格子というのかな?)

旧埴原家 座敷  

座敷西側に設けられている
ここで、手や足を洗っておられたのであろう?

旧埴原家を通り過ぎて  

旧埴原家を過ぎて、右手に伯備線の線路が見えてくる。突き当りを左折して100m頼久寺方面へ 右折して220m紺屋町美観地区方面に向かう事ができる。

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広い城見橋公園駐車場、備中松山城遊歩道入口に十台ほどのふいご峠駐車場、トイレ、休憩所あり。
土・日・祝日 9:00~17:00 城見橋公園駐車場~ふいご峠に有料シャトルバスが運行
場所:備中松山城一帯たかはしお城まつり「備中松山城 春の陣」 2012/4/28(土)~5/6(日) 9日間
2015/11/21
濃霧の中を岡山県道411号垂水追分線 真庭市下河内付近を走行していると、
交通安全を願ってクジラのモニュメントが設置されいた。
交通安全を願ってクジラの
モニュメント
真庭市赤野付近に手作りのお城がある 高梁市津川町付近の山々に
濃霧がかかる。
高梁警察署北の高梁市段町付近の国道180号線とT字路交差する国道484号線へと左折して
備中松山城展望台へと向かう➡高梁松山東楢井付近のT字路交差点を雲海展望台の案内立札を見て
左折し、市道楢井・松山城線(通り抜けはできません)を道なりに備中松山城展望台へと向かう  
備中松山城展望台へと向かう一本道を走行していると、左手に駐車場があり、山の木々が伐採され
切り開かれた場所がある。そこには、雲海が広がっていた。
  
晩秋のなごり
9:12
備中松山城展望台に着くとカメラマンは数人いた。その方によると早朝を目指してこないと天空の城は見えないという。
雲海に覆われた高梁市街地
高梁川
9時20分頃までいたが、備中松山城が天空の城とは成り得なかった。
 
2015/11/22 
この日は5時過ぎに備中松山城展望台に着いたが辺りは真っ暗で懐中電灯で足元を
照らした。多数の他県ナンバーの車が駐車していた。この写真は6時38分に写した展望台入り口です。展望台まで徒歩1分
2015/11/22 6:20 多数のカメラマンがずらりと並んで天空の城と成る時を今や遅しと待ち望んでいる。
22日は7時過ぎまでいたが、天空の城とまではいかず、またの機会を楽しみにしよう。
  
2015/11/23 
8時過ぎに立ち寄ってみたが、雲海は(朝霧)はお城までは来なかった。
縁があれば天空の城に出会えるであろう。
 
備中松山城展望台への道路は突き当りになっており、バスの回転場である。その広場にお猿さんが多数いた。
  
2016/4/23 9:14
周辺の山々が雲海となっていたので
立寄ってみたが、天空の城とは成り得なかった。
2018/11/18
2018/11/18 9:08~9:17  備中松山城の天空の城
カメラの傾きなどにより、色合いが変わるのだろうか? 
もう少し、雲海が上がってくれればなぁーと期待したが、この辺りまでだった。
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