山野草さがし散策・過去録写真館
神社やお寺には古木の森があり、お参りする人の心を
和ませていただき励ましてくれます。
吉備大臣宮・吉備真備公園 天石門別神社 佛通寺 貴布弥神社 菩提寺 |
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布施神社 由 緒(神社冊子参照)御鎮座地は富西谷宮原の平地、旧社地は三塚の壇にあり、永享年中(一四二九〜一四四〇)に現在地に移される。古くは登美荘二十四ヵ村の総鎮守で布施大明神とも呼ばれ、三町八反の社領を持っていたが、天正十一年(一五八三)宇喜多秀家に没収されたと伝えられている。中世には京都仁和寺の社領でもあった。社格は旧郷社である。現在の社殿は嘉永六年(一八五三)四月に再建され、天保・嘉永時代の神社建築様式が用いられている。東西に社殿が並立し、祭神は東の宮に素戔嗚尊、西の宮に奇稲田姫命の夫婦神が祀ってある。両社とも一間社、妻入り、前方入母屋造り、社殿正面の向拝に庇が付き、背面は切り妻、庇は海老虹梁が用いられ木鼻や蟇股に見事な彫刻装飾がされている。二軒繁垂木で屋根は銅板葺き、棟に千木と勝男木をのせた立派なお社である。年三度のお祭りが行われる。と記されている。 |
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社格とは、神社の格付け。郷社とは国家が神社を待遇するうえで設けた格式で奉幣を受けていたようで、 廃藩置県により消滅していったようです。 向拝(ゴハイ) 庇(ヒサシ) 木鼻(キバナ) 海老虹梁(エビコウリョウ) 蟇股(カエルマタ) 二軒繁垂木(フタノキシゲダルキ) 千木(チギ) 鰹木(勝男木とも) 奉幣(ホウヘイ) 砌(ミギリ) 災厄(サイヤク) 社叢(シャソウ) |
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布施神社について | 郷土記念物 布施神社の社叢(しゃそう) |
交通のご案内 |
祭事・社叢の木・ 文化財について |
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お田植祭について | ||
白賀渓谷方面へ右折した 。
明神鳥居、ケヤキや杉の大樹が目前に見えた瞬間に寄ってみようと思った。 |
布施神社
一角に、こんもりと鎮守の森に囲まれた布施神社が、この地域周辺を守護されている。 |
布施神社
花崗岩で造られた明神鳥居のすぐ右脇に欅の大樹あり。 |
布施神社
花崗岩の玉垣 行事案内立札 |
名木百選 布施神社のケヤキ ニレ科 根元部分 推定樹齢 500年 このケヤキは中山神社(津山市)、半田(美甘村)のケヤキとともに県下三指に数えられる巨樹である。 |
名木百選 布施神社のケヤキ ニレ科 上部枝部分 黄葉が進んでいた。 推定樹齢500年の老木とあって、数本の枝が枯れたのか切り取られていた。 |
左側、 吽形(うんぎょう)の狛犬
口を閉じている。 |
右側、阿形(あぎょう)の狛犬
口を開けている。 |
仁王門
左に手水舎あり。一礼 |
仁王門の注連縄 神域と現世を隔てる結界の役割をしているとされる |
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仁王門の裏面
神域と現世を隔てる結界の役割をしているとされる |
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仁王門の裏面
立派な注連縄は、長さ約5m 中心部の太さ約50cm |
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仁王門の側面
神域と現世を隔てる結界の役割をしているとされる |
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仁王門の阿形・吽形
室町期の作で桧一本造り。阿形像・吽形像を |
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布施神社の境内
左、西の宮の祭神は奇稲田姫命(クシナダヒメノミコト) |
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拝 殿
本坪鈴と注連縄 |
拝 殿 霜月祭 頭屋渡しの儀 2011/12/5 11:21 たまたま通りがかった時に、霜月祭 頭屋渡しの儀が行われていた。2011年産の新米で作られたのあろう鏡餅が仁王門にお供えされていた。 |
本 殿 東の宮
西の宮より一回り大きい東の宮の本殿の裏手この地域には、信仰心の熱い方々が大勢おられるのであろう。 |
本 殿 東の宮の蕪懸魚
蕪懸魚に草花鰭(菊の花か)が施されている。龍と虎が対峙しており、笹、梅、雲など素晴らしい |
本 殿 東の宮の千木・鰹木
銅板葺の屋根に、銅板で覆われた千木と鰹木が装飾されている。勝男木(鰹木)は、神社の尊厳を表す象徴。 |
本 殿 西の宮 手前が西の宮、奥が東の宮 信仰深い人々の感謝の心が現れ受け継がれている様子が見て取れる。
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鏡 餅 2011/12/5
2011年産の新米で作られたのあろう鏡餅が仁王門にお供えされていた。 美味しそう。 |
石灯篭と境内社
拝殿の左手に2社の境内社があり、裏手に3社、右手に4社とある。苔むした杉の古木など社叢が静かに見守っている。 |
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招 魂 社
明治37・8年(1904ー1905)の日露戦争で |
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小桜神社 明治42年合祀の折に建立された神社で富西谷字小櫻あり、祭神は不詳である。小櫻谷の奥に平坦地が在り神社が祀って在った。 奥の院は更に二百米ほど登った断崖の岩窟に鎮座されていた。 享保十一年(一七二六)におきた山中(さんちゅう)一揆に加担しながら、 悲しい終末を辿った百姓の一部が小櫻谷の奥深く隠遁し、津山藩の捜索を逃れ、百姓が無事難を逃れ家に帰った。 このことは神の加護によるものと感謝し祠を建て祭祀した。 うわさは広まり時を経て祠は小櫻神社と呼ばれるようになった。 明治中期に至って徴兵忌避の神へと変化した。徴兵は戦いにつながるとの感が強く、徴兵を免れる為に美作地方はもとより備前、備中からの参拝者で賑わった。参拝者は刀や槍などを供えて祈願した。 と記されていた。先人の人々は、大変過酷な時代を生活し暮らし向きを立てていたのだなぁー。今、平和であることへの、ありがとうの感謝です。 |
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その他の境内社 | ||
この石の下には神宝を埋めてあると言い伝えられ、いかなるときもこの石を動かすことはできないと 古文書に載せている。 |
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駐車場 | ||
祭事と行事予定 お田植祭 お田植行事 五月五日 午後一時半 わぬけ祭 七月二十一日 秋祭り(大祭礼) 十月第二日曜日(以前は十月九日) 霜月祭 頭屋渡しの儀 十二月五日(四日は宵祭)午前十一時 注連立祭 四月三日 当屋主の家に神の分霊を祀り込む祭 [神社の行事は二頭屋(以前は八頭屋)が一年交替で一年間の神社行事を 執り行い、 頭屋から選ばれた当屋主は一年間、神の分霊をお祀りする] |
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