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山野草さがし散策・過去録写真館

諏訪宮・那須与一墓

神社やお寺には古木の森があり、お参りする人の心を
和ませていただき励ましてくれます。

吉備大臣宮・吉備真備公園 天石門別神社 佛通寺 貴布弥神社 菩提寺 
領家八幡神社
 古堂地蔵尊祠堂 厳島神社 オシドリ・金持神社

諏訪宮・那須与一墓  中国観音霊場 第八番札所 明王院 布施神社 
木之庄八幡神社
 矢喰神社・国分寺・雪舟生誕地 牛窓神社 西光禅寺

史跡 諏訪宮由来
源平屋島の合戦に扇的を射落として勇名を馳せた那須宗隆の戦功は、戦後論功賞の時、
高く評価されて全国の五庄を拝領した。備中荏原庄はその一庄である。
然し宗隆は来ず病没した。弟の那須宗晴が建久三年(一一九三)に始めて着任した。
宗晴下向の途中、武事神・農事神として尊崇されている信濃の諏訪大社に参詣し、
武運長久を祈願し、更に諏訪大社上社の祭神建御名方命と八坂刀売命の二神を分霊勧請して
荏原庄に着し現在地に神殿を建立して二神を祭った。爾来那須氏の守護神として崇拝してきた。
関ヶ原戦後那須氏の根拠地十蔵城開城され、何時の頃からか農事神として庶民の信仰する所となる。遂に明治三七年から戸倉地区の鎮守神となり、今も地区民から尊崇されている。
西江原史跡顕彰会  平成七年九月建之 と説明板が建てられている。     
井原市西江原 諏訪宮と那須与一のお墓

諏訪宮

明神鳥居というのか笠木、島木に反りがあり両柱の上部が
中央寄りに建てられている。鳥居に藁縄で(龍をイメージしたのか)造られた注連縄が掲げられていた。
その奥に角石柱の神門がある

注連縄

こんな注連縄は初めてお目にかかりました。
上手く作られているなぁー。

諏訪宮

石段の両脇には杉の木が植栽され、狛犬の見守るなか
拝殿へと進む。

拝殿と幣殿と本殿

手前が拝殿で注連縄から幣殿、奥が本殿である。本殿は社殿とも神殿とも呼んでいるようです。鈴緒を振り鈴(本坪または本坪鈴と呼ぶ)を鳴らす。
自身の邪気を祓い、身を清め、清らかな鈴の音色で神様をお迎えする。

諏訪宮の本殿(左)と
拝殿(右)

簡素ではあるが神聖なる聖域である。
諏訪宮の左隣に荒神社が建立されている。

荒神社

穏和に福徳を授けてくださる神と畏敬の誠実を尽くさないと祟りや不幸に
あうと思われた2通りの神様が居られ、後者が荒神さまだったようです。

小規模な神社(境内社)

諏訪宮の右隣りに2社の小さな社が鎮座されている。
神社本社以外に小規模な神社を摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、枝社(えだやしろ)、枝宮(えだみや)などと呼び、摂社と末社を併せて摂末社(せつまっしゃ)とも呼ぶようです。

榊  ツバキ科サカキ属

境内には、わりに大きな榊が数本育っていた。常緑樹
榊は古来から神事に用いられてきた。

那須与一公墳の由来

元暦二年(一一八五年)二月十九日、四国屋島の合戦で若冠十七歳の那須与一は、扇の的を見事一矢で射落とした軍功により備中荏原荘など
五ヵ荘を賜りました。ここ井原市野上町余次にある「那須公墳」は、
荏原那須氏がその祖与一公をしのんで建てた墓(供養墓)です。
この墓は古くから扇の的一射必中の故事にあやかって
願い事がかなうと伝えられてきました。
近頃、特に高校、大学の受験合格を祈願すれば、直ちに叶えられると
言われ、受験生や親達のお参りが絶えません。 
与一公を「公(きみ)に一(ひとつ)(志望校)を与える。」と名の示す通りに読めば大願成就いたします。 
一人でも多く与一公の余徳にあやかり、喜びを共にいたしたいと願うものであります。
昭和五十九年(一九八四年)二月吉日  
那須与一公顕彰会と記された御案内板があった。

那須与一公のお墓入口

諏訪宮から岡山県道166号(美袋(みなぎ)井原線)を3kmくらい北に走行すると右カーブ道路標識手前を左折して700m位で那須与一公のお墓に行かれる。

与一公墳への案内標識

木製の案内標識が所々にありました。

林 道

車の離合は難しいですね。

与一公墳

左のコンクリート道を左に上がると駐車場あり5~6台は止められそうです。

東屋

駐車場脇に六角堂の東屋が建てられている。春になれば桜見しながら休憩をしよう。

参道階段

駐車場脇の参道階段が丸太木から新しく角材に取り替え整備されていた。

那須与一公墳

角材の階段を上がると、落ち着いた雰囲気がする林に囲まれた与一公墳にたどり着きます。

那須与一公墳

那須与一公墳の左手に絵馬札を掛ける木製絵馬掛けが
あり、与一公墳周辺はきれいに清掃されていた。

那須与一公墳

近年に墓地を改修整備されたようです。

絵馬掛け

左手に絵馬札を掛ける木製絵馬掛けがあり、大学受験合格などを祈願しての絵馬札がたくさん掛けられていた。

禅洞山 永祥寺

大本山總持寺直末 
那須与一公菩提寺
国道486号線「井原警察署東」
信号を左折して県道166号線に入り3.5kmくらい走ると右カーブするのでそのカーブの角の細い道を道祖渓方面へと直進する。

苅屋原なでしこ会

井原市道路アダプト団体とは、市民と行政がお互いの役割分担を
定めて両者のパートナーシップのもとで周辺道路の
清掃美化されているようです。市民と行政が協働で進める、
新しい「まち美化プログラム」だそうです。
市民は清掃美化活動、活動報告を行う。
自治体が清掃用具の提供、安全指導、サインボード(看板)の提供が
なされ、ごみ回収(地域によって異なる)など支援があるようだ。

明治池   名 勝 地

明治池のあらまし
「大業のかげには苦節があり、これを敬仰するのは、人の誠である。……」まわり四キロメートル、最深部十八メートルという豊かな水量を
誇る明治池築造碑に記された言葉です。
明治十六年、大干ばつが西江原村をおそいました。
これによって、雄神川の水脈をたよりとする西江原村戸倉、
小角、今市、長谷一帯の地は、水不足から、田畑ともに
大不作となりました。そのため、人々は、くらしに大変困るようになりました。そこで、これを救おうと、当時、県議会議員であった
三村政太郎や西江原村役場助役 大山邦一たちが中心となって、
明治十九年、明治池を作る計画をたて、同二十一年、工事を始めました。と池の上流部に案内板が設置されています。



道祖渓案内板

永祥寺開山実峰禅師の徳を慕って集まった童の中に道祖神の化身した稚児がいたとの伝説から……。道祖渓案内板

元の案内板は塗装がひび割れし読み辛いので、編集合成したものを掲載しています

竜門の滝

道祖渓は小田川の支流 雄神川最上流約500mにわたって
できている渓谷だ。
全国的に珍しい黒い輝緑岩(きりょくがん)を水流などにより
削り取られできた渓谷。明治池の流れ出口(竜門)
落差40m、水量は少なかったが、龍の勢いだ。

竜門の滝

道祖渓は小田川の支流 雄神川最上流約500mにわたって
できている渓谷だ。全国的に珍しい
黒い輝緑岩(きりょくがん)を水流などにより
削り取られできた渓谷。明治池の流れ出口(竜門)
落差40m、水量は少なかったが、龍の勢いだ。

竜門の滝の上部

明治池の水量があふれ出て竜門の滝へと流れ込みの
落差40mを駆け下っている。

明治池記念碑

大業の陰には苦節があり、これを敬仰するするは人の誠である。
旱害による凶作が相い続き農民の悲歎は言語に絶するものがあった。

以下に記念碑の彫刻文字を記しているが、読み違いしているものが
あればご了承の上ご勘弁ください。

大業の陰には苦節があり、これを敬仰するするは人の誠である。
古記によればこの池を養水の源とする井原市西江原町東部一帯八十余ヘクタールの水田は
旱害による凶作が相い続き農民の悲歎は言語に絶するものがあった。
この憂苦から逃れるための溜池新設を希求する声は積年の久しきに亘ったが、その適地が西江原町にない上、
主唱者がなくなったために実現の機を逸していた。折しも明治十六年稀有の旱害に見舞われたのを揳機に、
当時の西江原村の地主大山邦一は築池を発議し有志に諮け後に庶務長となってその用地を山野上村字口の淵に
選び関係地主百六十余名の協力と合財を得て明治二十一年十二月渓流の落ち合うこの山峡をせき止め谷底の
盤石に隧道を穿ちこれを底樋として堤塘を築く堅固豪放大規模の築池工事の工を起こした。
然して当時山野上村の地主三村政太郎は、この池の工事長を司どり両者比肩共励その他役員協力して
鋭意築池の進捗を図ったが、何しろ全長七十六メートル余の隧道工事は無比の堅巖のため難工を重ね多額の
費用を要したため、坑夫の不錬をなぢる一方貫通の目途ないことを理由に関係地主の中には連判の上築池の
中止を策するなど幾多難局はあったが、関係役員不屈の努力は遂に実を結び明治二十四年七月二年七ヵ月の
歳月と総事業費六千三百余円を費やし、貯水面積五ヘクタール余のこの池は見事完工の歓びを迎えた時の
元号を採り明治池と名付けその恵澤は支配地域一帯を潤しつつ、今日に及び漫々たる池水は晴好雨奇松影の
緑を映し故人の偉業を讃えつつ観光の絶佳をも誇っている茲に記念碑を建てその事跡を永遠に記録する
      昭和三十六年春日野上町住三村煕撰
      井原市長 従三位勲一等大山文雄書  と記されている。

天狗岩

天狗の面の鼻に見えることから天狗岩と名付けられたのであろう。右に90°回転させ起こしてみると天狗に見えるかも?

2012/1/25撮影
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