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古堂地蔵尊祠堂 広島県福山市内海町 田島を探訪する。 皇森神社
古堂さんが最近きれいになっているという情報を得て、2008年8月22日と23日と
訪れてみました。内海大橋を渡りきって直ぐに左折して坂を下り突きあたりを右折する。
200mぐらい自動車で走ると「だい一木材株式会社」が見えてくるので、
「だい一木材株式会社」手前すぐ横の道路を右折すると道路は2車線だが、
すぐに1車線の山道になる。上りきると2車線となり又1車線となって100mぐらい走り、
林道の中に入ると、すぐにコンクリートで舗装された参道と右折すると
白い木製案内ポールに「古堂さん(地蔵尊祠堂)」と書かれている文字が目に
飛び込んでくる。150mぐらいで地蔵尊祠堂に着くが参道が狭く車の離合はできないが
上に上がると普通車なら何とかUターンできるが、参道上り口に少し広いところがあるので
其処に車を駐車して歩いて上がると良いかも。としていましたが
2011年1月に行ってみると古堂地蔵尊祠堂近くまでコンクリート造りの参道を
車も上がれるようです。
樹木が伐採され古堂地蔵尊祠堂の周りが以前よりは広くなっていました。
赤いよだれかけをされておられるお地蔵さまが九体鎮座されていました。
地蔵尊をお守り、お世話される方々の温かな心が感じられました。
お地蔵さま 大きな慈悲を持って 人々の苦しみを除いて下さるため、
さまざまな願いがこめられています。との張り紙がされています。
トイレはあるにはあるが事前に済ませてきたがよいかもね。としていましたが2011年1月に行くと立派なトイレが新築されていました。
23日は地元の方々や他地域から多くの方々が集まって山中に明るい人声が
響き渡り、暗い世相を吹き払うことのごとく 人々の交流あり。感激と感動。
22日には、内浦山「いこいの森」へ行く。大きく成長したソメイヨシノ桜の
並木あり、山野草のママコナが咲いていた。
瀬戸内海が、内海大橋が、常石造船が眼下に見渡せて、さすが初秋、ハゼノキが
真っ赤に紅葉しはじめていた。
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2011/1/20 久々に訪れた古堂地蔵尊祠堂 |
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古堂地蔵尊の奥に「山乃大神」様が新築建立されていた。
古堂地蔵尊祠堂のある内海町内浦地域は
昔、源平合戦の古戦場だったという。
そして遍路さんの宿場でもあったようです。
地蔵尊をお祀り信仰し田島島民の癒しの場でもあったようです。
一時期は古堂地蔵尊も廃れていたようですが、3年ほど前から
地元の方たちや円応教有志の方たちにより
みごとに改修復興されたようです。 |
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山乃大神様
「山乃大神」様は現在地の後ろに砂防ダムがある
右手上の山中に祀られていたものを移築されたようです。
八幡鳥居が建立されていた。八幡鳥居は笠木、島木の反りが
両端のみで、ほぼ直線的であり柱と貫の接合部に楔(くさび)が
差し込まれている。神額の裏には額束が填め込まれている。
コンクリート参道は平成22年2月24日に敷かれたと
コンクリート参道に書かれていた。 |
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邪気を払うとされている鈴(本坪鈴・ほんつぼすず)の
鈴緒を振り打ち鳴らす。 |
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古堂地蔵尊祠堂の周りに自生していた大きな椚の木などが伐採され
内海町の海岸線が眺望できるようになっておりました。 |
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立派な水洗トイレが新築されておりました。 |
皇森神社(王太子宮)
祭 神 神武天皇。
相 殿 猿田彦大神。
創 祀 八九二年(寛平四年)九月十八日。
再 建 長久元年(平安)・治承四年(平安)・宝暦十一年(江戸)・明治十三年。
祭 日 旧暦九月十七日・十八日
神武天皇(即位前)が東征途中に立ち寄られた行宮跡として語り伝えられ、
王太子さんとして古くから住民に親しまれてきた。一九三五年(昭和十年)四月には、
当時の高島史跡顕彰賛助會の手により吉備高島宮記念碑が建立され
今も残されている。境内には樹齢数百年の椋(ムク)の樹や松、榎の高木が
立ち並んでいたが、現在は椋(むく)の樹三本だけが、その名残りをとどめ、
大日本老樹名木誌に掲載されていた樹齢千年の大椋樹も、
明治時代の大火に焙られ、今は二世の時代になっている。
内海町教育委員会
文化財保護委員会と記されている。 |
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明治時代に奉納された大型の絵馬
当時の町並み、人々の衣装、漁師の様子、帆船、勇壮な武士の姿などが描かれた絵馬が
拝殿の天井に掲げられている。当時を偲び見ることができる貴重な資料であろう。 |
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くじらのヒゲ
昔、くじらのヒゲだと先輩が教えてくれましたが
鯨のどの部位なのか定かではありません。
明治44年に奉納されたものです |
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